数学におけるゲーム的要素と研究的要素を考える。

 


朝は寒くて起きれず、夜はめんどくさくなって何もできない自堕落で冬眠的な生活習慣になりつつあるTomです。今回は数学のゲーム的要素と研究的要素を考えていこうと思います。

まず、数学におけるゲーム的と研究的を定義しなくちゃならない。

最初にゲーム的について。ゲーム的数学というのは簡単に言えば練習問題だ。学校で学ぶ計算問題、受験問題や定期試験なんかがその例にあたる。これらは全てあるルールに則った問題をそのルールに則って解き、最終的に答えを導くというものだ。その上で公式をゲームをクリアする手段として使用することが多い。これが概ね私の述べるゲーム的数学というもの。

では、研究的数学とは何だろうか。こちらも問題を解くことにはなるのだが、ゲーム的数学と違い、練習問題ではない。無の状態から問題(疑問)を生み出し、それに対する答えを探し出すというものが研究的数学である。「数学者」と呼ばれる方々が日々行ってる数学行為だ。フェルマーの最終定理や円周率などがそれに該当する。


ここで私が述べたいのは、小・中・高等学校における数学のゲーム的要素の割合が、あまりにも大きすぎるのではないかということ。(低レベルの四則演算は要素を考える以前に必須であるが。)

例えば私は今高校生であるが、数学の授業では、何となく教科書のカリキュラムを進め、何となく定理を覚えさせられ、何となく練習問題を解かされ、数学の授業でその定理や公式が成り立った歴史などはページこと飛ばされてしまう。私の高校が進学校なのもあり、数学を学ぶのではなく、受験のために訓練しているという感覚だ。

結果として、日本の学生は高い計算力を持っているのだが、その反面、数学に対する苦手意識も大きい(これに関しては万国共通で言えることだが)。


そこでこの矛盾を解消するために、私は計算機の使用と数学史・数学探求の授業の導入を提案する。

まず、計算機の使用についてだが、このおかげで無駄な計算時間を減らせ、簡単な演習問題を行い必要性がなくなる。つまりは暗記する割合が大幅に減るのだ。もちろん計算力の低下は起こり得る。ただ暗記型演習問題(ゲーム)を行わないので問題外である。

そして数学史。これを提案したのは、我々ホモサピエンスが誕生してから30万年が経ち、古代ギリシャの時代からは2500年が経過する、この長い歴史(地球規模で見ると短いが)において文明を支えてきた数学史を学べば、数学への意義を見出すことができると考えたからだ。逆に数学を学ぶ意義を見出せるわけがない。上でも言ったことだが、訓練ではなく、学問としての数学を学ぶべきであり、そうするためには数学史が必要なのだ。

そして数学探求。これは何かというと、数学に関する研究を行うものである。そしてその研究は答えを求められるかどうかを評価するのではなく、そのプロセスを評価する。(まあ、素人の小中高生がする研究なんぞ数学者の行うものと到底比べ物にならないため、答えが見つかる割合はゼロに等しいし)そして研究をしていくうちに数学全般の知識を得ることができ、数学がいかに深みのある学問なのか気づくことができる。

その結果として、数学に関する深い知見を得ることができ、数学への勉強意欲が湧く。そしてその勉強意欲は計算能力の向上だけではなく、数学への研究的知識を深め、思考能力を高めることにつながる。


以下が今回のまとめと結論である。

数学のゲーム的要素と研究的要素がある。現在の小中高等学校ではゲーム的数学の割合が大きすぎる。結果として、日本の学生は高い計算力を持っているのだが、その反面、数学に対する苦手意識も大きい。

この矛盾を解消するために、計算機の使用と数学史・数学探求の授業の導入を提案する。



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